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zoom RSS [TOU-LOVE] sustainable (徳川ミュージアムの燭台切光忠)

<<   作成日時 : 2015/05/19 01:39   >>

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2015年の「国際博物館の日」について、ICOM(国際博物館会議)が設定したテーマは Museums for a sustainable society(持続する社会と博物館)です。

※書いている人は、刀剣乱舞ではへし切長谷部クラスタです。
※レポ内容には当日見聞きした事象以外に、後日webで収集したものも含まれます。


Ksスタジアムで水戸vs大分の試合がある日、私は水戸光圀の茶室跡に作られた徳川ミュージアムへ行ってきました。
ミュージアムが所蔵している刀剣についてのイベントが行われたのです。

まずは、イベントが開催された経緯の説明でした。
5月18日は『国際博物館の日』
東京国立博物館・刀剣博物館・福岡市博物館etc.『刀剣乱舞』で擬人化された刀を所蔵する各地の博物館でも、催しが組まれました。
また17日・18日は日光東照宮で例大祭が行われ、2015年は家康没後400年の節目でもあり、ミュージアムの館長である水戸徳川家の当主も出席中。
(余談:今年から当主は水戸ホーリーホック後援会の会長にも就任)

この記念すべき時期に、突如として照会が殺到するようになった『燭台切光忠』と
(一つの品に対し、ここまで大量の問い合わせ+展示に対する意見が寄せられたのは、徳川ミュージアムでは初めてだそうです)
水戸徳川家で最も重んじられた『児手柏』の公開に当主の許可が出て、まずは刀に興味を持って下さった方々へ見せようとイベントを企画した……と説明がありました。

燭台切がこれまで展示されなかったのは、.決して状態が悪いからではなく、展示企画の趣旨とマッチしなかったからのようです。
3つある展示室のうち、第3展示室は東日本大震災で被災した収蔵品整理にあてられ、閉鎖されています。
第1展示室の常設展には、関東大震災で焼けてしまった水戸徳川家の刀のうち、2代藩主・光圀が生涯唯一の手討ちに用いた脇差(銘 国光)が展示されています。
家康没後400年企画展の第2展示室に『武庫刀纂』(後述しますが、家康とほぼ関係ない)が置かれ、わざわざ燭台切のページを開いてあるのは有り難いことなのです。

ここから講師の先生(ブログで顔文字を使われるチャーミングな方)に話者がチェンジ。
報告のテーマは「武庫刀纂に描かれた水戸徳川家の名刀」。
燭台切も、『ぶことうさん』に収録されている408振りの一つに過ぎません。
(だからこそ、燭台切のページを開けて下さっている事実が重いのです)

『武庫刀纂』とは何か。
編纂を命じたのは、弘道館や偕楽園を造った9代藩主・斉昭(15代将軍・慶喜の父)の兄である8代藩主・斉脩(なりのぶ)。
書工(絵描き)8人に手分けさせ、水戸徳川家が所有する日本刀408口を模写させたものです。
目次1巻+本編15巻+附録8巻で構成されています。

目次では、水戸徳川家の“寶刀”として5振りが最初に並んでいます。
細川家から家康に献上され、家康の子息間で争奪戦になったとも伝わる児手柏は、いの一番に挙げられた宝刀です。
それ以外は生産地別に分類され、まずは“山城”から始まっていました。

紙の節約か、刃紋は1ページに縦長の刀身を三等分して描かれています。
その裏に、刀の作者・サイズ・由来などが記されました。
例として紹介されたのは脇差 宗近(つまり三日月宗近の“兄弟”)。
由来には「神君御拝領」とあり、家康から下賜されたと分かります。
また、藩主がお金を出して購入した刀については、容赦なく値段も書かれています。
(燭台切の一つ前に書かれている別の光忠は「元禄折紙代金子十五枚」)

水戸藩主は定府=常に江戸にいると決められていて、病弱の斉脩は一度も水戸の土を踏まず32歳で亡くなりました。
書に優れ、藩邸で焼き物に興じた斉脩は文化人でした。
(大名が藩邸に窯を作り焼き物を嗜むのは一般的らしく、茨城県立歴史館にも水戸藩中屋敷の地名を取った『後楽園焼』が展示されてました)

しかし、父の代から水戸藩近海で目撃されるようになった異国船は、武庫刀纂が完成した1823年には那珂湊の沖合に頻出し、水戸藩は海岸の警備を固めました。
翌1824年には、大津浜にイギリス人が上陸して一騒動(大津浜異人上陸事件。そのイギリス人は絵で記録されている)起きています。

そんな折に作成された武庫刀纂の序文1行目は、「刀剣は国家鎮護の重鎮也」です。
2文目はイザナギが火の神カグツチを十束剣『天之尾羽張』で三つに切り殺した神話。
以下、スサノオのヤマタノオロチ退治など、『古事記』『日本書紀』に登場する剣がずらずらと登場します。

たとえば、中世の刀として鬼切、友切、髭切など源氏の武功を飾る名器の名が連ねられていました。
徳川家の祖である源氏は武士として、刀を用いて朝廷を守護していたと綴っているのです。

鎖国体制を揺るがす侵略への危機感に対し、斉脩は軍備増強だけでなく、古来の伝統を重んじる国学にも力を入れようと考えました。
武庫刀纂も、序文で国や歴史を守る刀剣は重要だと強調し、記紀より多数の引用を行っています。
名刀を武器庫に集め、鑑賞を通して我が国の威光を感じ取る―ただの紛失防止を目的とした管理用図録ではなく、日本を守るという決意表明。
尊皇で知られる水戸藩が作成した書物らしい、と私は思いました。
日本の歴史を守るために刀剣は重要な存在―ゲーム刀剣乱舞のモチーフにも繋がるものがあります。

話は変わって、会場に登場した2振り・児手柏と燭台切光忠の話。
元来このイベントは午前と午後の2回組まれていたのですが、あまりに申し込み多数のため、朝と夕方に追加され計4回に。
私が参加したのは、もともとは初回でしたが、結果的に2回目となりました。
朝一番の回に参加した人々からの情報はtwitterであっという間に拡散され、2振りの撮影が許可されたのは事前に知ってしまいました(苦笑)

児手柏包永は前述の通り、水戸徳川家が多数所持していた刀でも特に大切にされていました。
もとは細川幽斎(『歌仙兼定』の名付け親・細川三斎の父)の佩刀でしたが、家康に献上され、関ヶ原にも持参したとされています。
細川家には歌仙をはじめ、風変わりな名前の刀がいくつもありますが、児手柏は表裏の刃紋が違うところから幽斎が命名しました。
展示では裏面(と銘から判断される側)が上を向けられていました。

そして、燭台切光忠。
(ここからは講師も「皆さんよくご存知かと思いますが」の連呼(笑))

備前の刀工で長船派の祖とされる光忠の作品は、比較的多数が現存しています。
刀剣乱舞ファンの間で割と支持されている燭台切の来歴は、織田信長→豊臣秀吉→伊達政宗→水戸徳川家。
信長は光忠コレクターとして知られていますが、残念ながら秀吉に譲ったという史料は(講師さんが調べた限り)見つからなかったとのこと。
秀吉から政宗に光忠が渡った逸話―ほとんど強奪?!―も、面白いものの信憑性は怪しいようです。

武庫刀纂には燭台切の来歴として、2つのエピソードが書かれています。
一つは、刀剣乱舞の刀帳でも本人が話している、政宗が燭台に隠れた家臣ごと斬り捨てたゆえの号であること。
もう一つは、そのエピソードを政宗から聞いた光圀が燭台切を欲しがった結果、お気に入りだと断られたものの結局は手に入れたこと。

武庫刀纂は政宗没後、約200年を経てから作られました。
政宗も光圀も当時既に歴史上の偉人であり、だからこそ歴史改変の気配が感じられる……という趣旨で講師が自説を述べられました。
二人の年齢は63歳も離れていて、幼い光圀が水戸徳川家の一員として政宗と単独会見は難しいのではないか、と。

政宗と光圀の父・頼房は仲が良く、水戸藩上屋敷(現在の吹上御所)と仙台藩の屋敷(日比谷)は3km程度のため、30歳違いでも13回の交流が文献で確認できます。
直接会ってお茶を飲んだり、手紙をやり取りしたり、刀を贈呈(ただし確認できるのは水戸徳川家→伊達家の流れ)したり。
頼房が「光忠を嫁入らせ候へ」と言ったエピソードもロマンですけど、ありえなくはない関係ではあったようです。
いずれにしても、伊達家の文書に燭台切という文字はありません。

ともあれ、水戸藩の所有物となった燭台切。
江戸時代は水戸の武器庫にありましたが、明治になり勤皇の家風で真っ先に上屋敷などを返上した水戸徳川家の本邸が小梅御殿(現在の隅田公園)となった際に移りました。
関東大震災は台風が接近していた9月1日11時58分に発生し、昼食の準備に火が多く使われていたため、火災旋風が引き起こされてしまいました。
洋風のおしゃれな建物になっていた小梅御殿は焼け落ちてしまいました。

web上で流れていた話では、当時、絵画の蔵は残るも刀剣の蔵は火が入り……と言われていました。
実は、刀剣の蔵も残っていたのです。不完全燃焼による一酸化炭素を中に充満させて。
このような状態の建物に外気(酸素)が流入すると、即座に結びついて大爆発してしまいます。
バックドラフトと呼ばれる現象です。
よって、3ヶ月以上過ぎてから開けるべき蔵でしたが、中にあるのは大正になってから厳選した末に売却しなかった家宝ばかり。
気になって扉を開けてしまい、開けた管理担当はあまりの熱さに屋敷脇の隅田川に飛び込んで亡くなり、刀は蒸し焼きになってしまったのです。

刀は蔵の中での保管場所から個体名が特定され、改めてサイズの測定が行われました。
焼けた刀は程なく水戸に運ばれ、そのまま平成を迎えました。
太平洋戦争中の金属供出令も、徳川家は断固拒否しました。
もはや美術品としての日本刀にはカテゴライズできない、錆びた鉄の塊。
博物館でなければ法律上は破棄が要求されるコンディションながら、水戸徳川家は歴史的真正性(Authenticity)を重視して守ってきました。
武庫刀纂は結果として焼けた刀を特定する材料になりましたが、斉脩が編纂した意図も伝えられたんだ、と私は感じました。

5月14日、もう一度焼け身のサイズを計り、文献上の数値と照合した結果、燭台切と再確認され、当主から公開許可が出ました。
繰り返しになりますが、燭台切は決してコンディションが悪くて眠っていたわけではありません。
ゲームから注目が集まったために、焼刀(くどいですが美術品としての価値が全くないもの)を表へ出せることになったのです。

最後に挙手で、燭台切の展示を希望するかのアンケートがありました。
初回は満場一致で展示希望だったと風の噂で聞いたのですが、私が参加した回は、燭台切のコンディションを心配する人も半数近くいました。
もし展示するとなっても、万全の体制は整えるのでダメージはない、とスタッフさん。

寄付金のお願いもありました。
燭台切はじめ収蔵品も東日本大震災の影響は受けてますが、何より大ダメージを受けているのは徳川家のお墓。
修復を始めているものの、総費用は20億と見込まれています。

小さな会議室に、頑張って並べた40の椅子。
その前方にステージがあり、白い布で覆われた台の上に、葵の紋が入った緑の布がかぶせられていました。
講演の途中で男性が3名入ってきて、話を聞き終えた一同の前で、緑の布を取りました。

左に児手柏、右に燭台切光忠。
当主ならびにスタッフのご好意で、撮影+SNS掲載可でした。何の仕切りもないのに。
「1人15秒くらいでお願いします」とか「ツーショット写真をご希望の方は」(これには笑い声上がってましたが、他の回では撮った人いらっしゃるようで)とか、まるで彼はアイドルみたいな扱いでした。

燭台切は児手柏と違って無銘で、武庫刀纂で繊細に描かれていた長船派らしい優美な刃紋も完全に失っていました。
真っ黒になった刀身に、バックドラフトで融解した金のハバキが流れるように跡を残していて……多くの審神者(ほぼ100%女性)は、彼をかっこいいと評していました。
写真撮るのが大の苦手なので、水戸市の公式twitterにある写真にリンクしておきます。

彼の今後は、蒸し焼きという前例の乏しい状況でもあり、これからの研究に委ねられます。
水戸徳川家も、収蔵品の中でも刀剣に目を向けるきっかけとなったようです。

たかが擬人化ゲーム、されど人もお金も動いて……ほんの少しだけ、歴史が修正された日だったと思います。

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